【巧妙化する差別】日本に多い差別的言動・アンチ(叩き)の手法は2種類

差別・偏見はとても悲しい

マイノリティ(少数者)にとって、とても辛く感じるのが、心ない差別的言動です。

自分の存在意義や、存在そのものを否定されたような気がして、涙がこみ上げてきます。

 

なぜ、人は人を差別するのか、たたくのか

⇒ 『【分析】人が、人を差別する理由・叩く原因は5つ

 

「生きる必要ない」「○ね」「キモい」・・・など

実際に言われたり、そう書かれた文章を見ると、ほんとうに辛いです。

 

日本では、海外とは異なり、石を投げられたり、ナイフを突きつけられたりといった、命の危険があるような”殺人的行動”は、ほとんどありません。

しかし、だからといって「差別がまったく無い」というのは、早計ではないかと感じています。

 

日本にも存在する差別

日本で多い差別的言動は、主に2種類あります。

いわゆる”擬似的陰口””衝動的差別”です。(講学名ではありません)

 

擬似的陰口とは?

一般に、陰口とは、その人の居ないところで悪口を言うことを意味します。

陰口を言うこと自体は、仕方ないことだと思います。生きていれば、むかつくことだって、悪口を言いたいことだってあります。

 

しかし、この‟擬似的陰口”は、とても、たちが悪い。

陰口のように見せつつ、それを本人が近くにいる場所、目に入るところや、本人ではなく本人と血縁関係・利害関係のある人に対して言うのです。

 

表立っては笑顔を振りまき、作り笑いをして、まるで理解しているかのように振る舞いつつ、影で差別感情や先入観をあらわにして、かつ、当事者に聞こえるかのように差別的発言をします。

海外のように、直接的に浴びせられるわけではありませんが、当事者に聞こえるか聞こえないかのような音量と距離で発言し、時には匿名性という自らは守られた防御壁を作って、発言をしてきます。

 

まるで「建前と本音の社会」と揶揄される社会構造そのものを具現化した差別行動です。

もちろん、気にしなければいいだけなのですが、日ごろからマイノリティとして意識させられている人間としては、そのような”擬似的陰口”は、どうしても地獄耳のように聞こえてしまうものです。

 

衝動的差別とは?

これは、普段は何とも思っていないのに、いざ対象を目の前にして、突如として嫌悪感、差別感情を抱き、それを行動にだしてしまうものです。

 

日本は、島国ゆえに、他国ほど、他人種や他民族との交流・衝突が相対的に多くありません。それゆえ、日本人は生来的に、異種に対する耐性や認知が難しく、同調主義をとってしまいがちであると言われています。

また、個人をみていけば、生まれ育った地域や環境によって、”自分の属すカテゴリーと異なる人”との触れ合いが少なく育った人もいます。

そういう経緯もあり、”変わったもの”を目前にして、警戒心をいだき、無意識に差別的言動に出てしまうのです。

 

たとえば、僕個人の経験なのですが、「同性愛者です」とカミングアウトした際、相手の方が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべることがあります。(特にご高齢の方に多い

その後、話を続けていると、言葉の端々に偏見や差別感情があらわれてきます。

しかし、彼らは、テレビを通しておねえやゲイといったマイノリティに慣れてはいるのです。大好きだとも言います。彼ら自身も、同性愛者に対して理解が有るつもりだと自認していたりします。

ですが、いざ、テレビの向こう側にいるとばかり思っていた人が目の前に存在すると、びっくりして身構えてしまうようなのです。

 

論理というオブラート

上述の通り、日本には、”殺人的行動”のような差別は少なく、他方で、”擬似的陰口””衝動的差別”という差別が多いです。

しかし、問題をより複雑にさせている要素が存在します。

それは、それら2種類の差別的言動や叩き(アンチ)が、”論理”という盾を使用してくる点です。

 

感情的になって「同性愛者は、きもい!」などと叫んでいれば、誰もが、「あー、なんか言ってるなー」「アンチだなー」と分かります。海外の”殺人的行動”のような差別は、その一例でしょう。

しかし、一定の常識人であれば、意識的もしくは無意識的に、自らの主張が差別ではないと言うために、論理という名のオブラートにつつんで、主張をしてきます。

それゆえに、一見して、その主張が論理的な因果関係の上に成り立っているように感じてしまうのです。

 

この点が、大変危険なんです。

ある程度の知識があれば、事実誤認や偏見だと分かるでしょう。しかし、その知識がない人からすると、「へぇ、そうなんだ」とあたかも正しい主張だと勘違いして受け取ってしまいます。

結果として、さらに差別や偏見を助長させることにもなりかねません。

 

また、いまだ知識が少ない中学高校生の当事者にとっては、その主張・意見を間に受けて、深く落ち込んだり悩んだりするでしょう。

そのような思いを、次の世代の子供たちにしてほしくはありません。

 

正しい知識の普及を

論理に覆われた差別を、そのオブラートから暴くためには、前提知識の誤りや事実誤認であることを、的確に指摘できることが必要です。

そのためにも、正しい知識の普及、教育をしていく必要があるでしょう。

 

未来の子供たちが、マイノリティゆえに悩むことがなく、また、偏見や差別を受けずに生きられる社会になることを切に願います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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